このピンチをどう切り抜ける?

OBUコーチ

長年、卓球選手をやっていると、これはマズイぞ、このままでは卓球が続けられないと思うピンチに見舞われます。

44年卓球を続けてきましたが、もう卓球をあきらめようかという時が何度かありました。

でも、まだ選手を続けています。

私はどうやってそんなピンチを切り抜けてきたかを、ざっくりと今号ではお話します。

個人的な体験談ですので、全ての人に当てはまるとは思えません。

また結局のところ、自分のピンチは自力で何とか乗り切るしか方法がないのだと思います。

だから私の話は、ふーん、そうなんだー、くらいに軽く読み流して、参考になれば参考にすれば良い、くらいに捉えて頂き、ご自身のピンチを乗り切ることに全力を注いで頂きたいのです。

今の私はやりたい時に、自分の卓球の練習が出来ています。

しかも今が一番楽しいというか、今が一番幸せというか。

今は本当に、感謝しかありません。

【仕事との両立】

社会人になりたての頃、覚えることが多くてとても卓球どころではなくなりました。

学生の頃の様に時間はふんだんには無く、思う様に練習出来ないもどかしさが募るばかりでした。

試合にも出させてもらいましたが、あまり成績もパッとせず、練習さえ出来ればと、悔しい思いをしておりました。

20代の後半に1回目の転職をして、静岡に戻ってきたのですが、競技としての卓球はもうおしまいにしようと思っていました。

仕事も忙しいし、膝の調子も良くない、これからは楽しんで卓球が出来れば、それで良しとしよう、と考えました。

そして、ある日、カットマンの戦型を捨て、ブロックマンとして地元の試合に出ました。

それほど強くない年配の左利きの選手に、いいようにやられてしまいました。

試合に負けても笑っていましたが、胸の中がモヤモヤとしていました。

試合後しばらくの間、

「お前は本当にこれで良いのか?」

と自問自答していました。

ある日、結論が出ました。

いーや、違う!こうではない。自分はもう一度選手としてやるのだ。

練習時間は思う様に取れないかも知れない。
膝などの身体の故障は、これからも年齢と共にあるだろう。

しかし、カットマンとしてもう一度、一から出直そう、チャレンジしよう!

そう思ったのでした。多分、負けず嫌いだったのですね。

【家庭との両立】

私が結婚したのは私が28歳の時でした。
2年後に長男が生まれ、その2年後に次男が生まれました。

小さな赤ん坊がいる生活では、自分の卓球どころではありませんでした。

どんどん自分の卓球の技量が落ちていくのは分かっていましたが、子供たちを風呂に入れたり、哺乳瓶を洗ったり、絵本を読んで寝かしつけたりと、やることは沢山ありました。

彼らが小学生低学年くらいまでは、平日の夜も休日も一緒に遊ぶ時間に取られ、私はますます卓球から遠ざかりました。

鬼ごっこ、野球、サッカー、かくれんぼ、木登り、水泳、積み木遊びやブロック、プラレール、お絵(まんが)かき、紙飛行機など、よく遊びました。

彼らの成長は勢いが凄まじく、彼らの成長と共に私も父親になっていった気がします。

今から思うと毎日が発見の連続で、幸せで充実した時間でした。

合間を見つけては練習していましたが、充分なものとはとても言えませんでした。

どうすれば、自分がまた卓球が出来るようになれるのか。
そうだ、彼らにも卓球をやらせれば良い。

長男が小学4年生になるのを機に、スポーツ少年団にお世話になることに決めました。

女房も卓球選手だったので、卓球には理解があって助かりました。

当時の私には夢と目論見がありました。

それは、

「自分が子供たちを教えることも出来るが、それをやってしまうと熱が入り過ぎて、結局上手く行かないだろう。ますます自分の練習どころでは無くなるはずだ。それよりかは、彼らの指導は他人に任せて自分は彼らの目標であり続けよう。そしていつか親子ダブルスを組んで試合に出たい」

ということでした。

センスの良いのは次男の方でした。真似をするのが上手いのです。

しかし元来飽きっぽい性格だったので、ほどなく卓球は止めてしまいました。

私のプレーを観ていた長男は、始めて1年もしないうちに、カットマンがやりたいと言い出しました。私は内心シメシメでした。

私の目論見は成功し、夢も適いました。
長男と親子でカットマンダブルスを組んで、試合に出ることが出来ました。

私は上手く家族を卓球に巻き込むことで、また自分の練習をすることが出来たのです。

回り道をしたかも知れないけれど、私の選択は間違っていなかったと思うし、人生の中で大切な時期だったと思っています。

【病気などの災難】

家族や自分自身の病気や怪我で、卓球が出来ないという笑えない状況も幾度となくありました。

阪神淡路大震災で実家が被災し、その1か月後に父が病で倒れた時には、やはり卓球どころではありませんでした。

近隣の方や、父と仕事上の付き合いのあった方のご厚意で、大変助けて頂きました。

私も平日は静岡で働き、週末は帰省して入院の父を見舞う生活を続けました。

私自身の怪我の時期もありました。試合中にアキレス腱を断裂したのです。
復帰までに一年近くかかりました。

また別の時期に、職を失い、生活そのものがピンチになる時期もありました。

しかしいずれの場合も、一時的なもので、時期が来ればまた卓球が存分に出来る時が再び来るのだと分かっていました。

それがまた心の支えでもありました。

その時は辛く苦しい思いをしましたが、今から思い返してみると期間的には短かったし大したことではなかったと思えるのです。

【そして、今】

実は、私は今、卓球が出来ない状況にあります。

先月に練習や試合を頑張り過ぎて、また年度末・年度初めで仕事が重なり、オーバーワークに陥ったのだと思われます。

持病が再発したのも、これが原因で誘発したものではないかと推察しています。

とにかく今は、おとなしく安静にしていなくてはならなくなりました。

病気は生活の赤信号で、それまでの生活で何か無理があることを教えてくれる、言わばとてもありがたい存在だと教わりました。

焦る気持ちが無いと言えば嘘になりますが、後日、この時期を振り返った時に、あの時に休んでおいて良かったと思える様にしたい、また、その様にしていかなくてはならないと思っています。

いずれこのピンチは収束するはずだと信じていて、今出来ることを精一杯やろうと決めているのです。

冒頭に述べたように、私は今が一番楽しいのです。

自分がこうなりたいという目標があります。

その目標は、決して手の届かない距離に在るものでなく、出来た時には実力が数段アップしていて、欲しかったものが全部手に入る、という代物です。

その目標に、歩みは遅いですが、一歩ずつ近づいている感じがしているのです。

結果的に目標をクリア出来る・出来ないは、実はあまり重要視していません。それよりも今この瞬間が充実していることが私にとって大切なのです。

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